こんにちは 日本共産党市議会議員 小林ひさ子です

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前橋空襲の記録・記憶を後世に伝え、戦争の残酷さと平和の重みを考える

e0258484_18453878.jpg前橋に「平和資料館」設立をめざす会(岩根承成代表)は8月6日~10日まで三河町の旧大竹酒造レンガ蔵で、前橋空襲69周年企画展を開いています。毎日10時~17時

展示は前橋空襲などのパネルや地域の戦争と平和に関する資料。地域の9条の会の展示など。

体験者の話は日替わりで、12人の方が6日~9日の午後2時から4時まで行います。

記念講演は8月10日午後1時30分~3時30分まで
       「終戦10日前の前橋空襲を考える」と題して岩根承成氏(元群馬大学講師)

7日は、群馬県原爆被災者の会会長の須藤叔彦さん、五十嵐公一さん、鈴木幸子さんが体験を話しました。

須藤さんは当時旧制中学の4年生で16歳。長崎の軍需工場に動員されていた。
8月9日の朝、母の顔を見るのが最後になるとも思わず軍需工場に向かった。
毎日のように警戒警報や空襲警報が鳴り響き、作業を中止して防空壕へ避難するの繰り返しだった。
友達に今何時と聞かれ、「11時3分」と答えた。その直後窓からものすごい光に照らされ、工場が崩れ、真っ暗に・・・このまま死ぬんだと思った。母の顔が脳裏に浮かび心の中でさよならと告げ、気を失った。
新型爆弾と聞かされていたが、原爆の熱と放射能で長崎で約7万人が死亡、重軽傷者と合わせ14万8793人もの人が犠牲になった。
1981年に嶺公園内に原爆慰霊碑を作り、慰霊を続けてきたが、県内の被ばく者も約140人、被ばくを語り継ぐ人も高齢化で大変になってきている。こういう機会を得て、体の許す限り語り継いでいきたいと、須藤さん。

五十嵐公一さんは前橋空襲当時小学5年生。前橋市内から郊外へ疎開していたが、傷痍軍人だった父が、我が家へ帰って風呂にみんなで入ろうと言って、5日は自宅に一家6人が帰った。床に就いて間もなく、警戒警報が発令。父がすぐ逃げようと言って、赤城県道を北へ逃げる。すぐ逃げたのが功を奏して、白川まで来て振り返ると町中火の海。焼夷弾が真昼のように明るかったのを記憶している。
今だに、サイレンの音聞くと、耳をつんざく爆音の音を思い出し、おかしくなることがある。
人は何かと忘れてしまうし、若い人は経験していないからわからない、こういう機会を与えていただきもっと体験を話していきたい。

鈴木幸子さんは、繭検定所に動員され、自転車でバラス道を通う途中空襲警報が途中で鳴り、防空壕に逃げ込んだことを覚えている。勤労奉仕ばかりで、勉強もさせてくれと要求したらかなえてくれた。
桂萱村だったので、空襲の被害は直接受けなかったが、町中は焼夷弾がたくさん落ちていて、防空壕に逃げた。暑くて、のどが渇き、濡らした布を吸った記憶がある。

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by hisako-koba | 2014-08-07 18:46 | 集会 | Comments(0)

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